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うさぎ 広島へ出張に行ってきました。ハート
久々の出張ブログです。まじめなビジネスマンの方はここから下は全くお仕事に関係ないので・・・・
お忙しいお仕事の合間の休憩にどうぞ・・・

うさぎ さて広島です。
今回は時間が限られていて・・・、あれもこれも見ることもできないし、あんなものやこんなものも食べることもできません。
でも・・・睡眠時間を削って・・・

広島城です。かつては国宝に指定されていましたが先の戦争で原爆により倒壊・・・。

その後一度は昭和26年、広島国体時に仮設で木造の天守閣が立てられましたが、その後解体。
昭和33年に現在の天守竣工。
ただし鉄筋コンクリートです。

さて、広島といえば・・・・
ニヒル 毛利元就!
むむっ 三本の矢!
にわとり 八つ墓村!

毛利氏は南北朝時代からの領主でしたたが、元就の時に山陰地方を支配していた尼子一族との戦いに勝ち中国地方を支配するまでに成長しました。

その尼子一族の末裔が多治見家の寺田辰弥(萩原健一)です。
1566毛利に敗れた尼子義孝は、落ち武者として8人で今の八つ墓村の地に落ち延び、農民としてひっそりと住みついた。
しかし落ち武者たちは、毛利からの褒賞首なっており、懸賞に目の眩んだ村人たちに謀略の村祭りに参加させられそこで欺し討ちに合って惨殺される。
そして莫大な山林は褒美として後の多治見家が相続するが、尼子の祟りではないかという殺人事件が次々と起こる・・・。

それ・・・八つ墓村でしょ。

そうなんですが尼子氏は毛利元就に追い詰められたのです。
元就は後に三矢の訓 (みつやのおしえ)のもとになる手紙を長男隆元に書きます。
3人の息子たちに一致協力して毛利宗家を盛り立てていくように諭しています。

三本の矢の話は・・・・、晩年の元就が病床に伏していたある日、隆元・元春・隆景の3人が枕許に呼び出された。元就は、まず1本の矢を取って折って見せるが、続いて矢を3本を束ねて折ろうとするが、これは折る事ができなかった。そして元就は、「1本の矢では簡単に折れるが、3本纏めると容易に折れないので、3人共々がよく結束して毛利家を守って欲しい」と告げた。息子たちは、必ずこの教えに従う事を誓った・・・・
ですが、これは時系列的にありえないシチュエーションでありフィクションです。
また尼子一族の再興を願ったのが 「我にに七難八苦を与えたまえ」 の山中幸盛(ゆきもり)通称山中鹿介(しかのすけ)です。

さて・・・八つ墓村の犯人は森家の美也子(小川眞由美)ですが・・彼女は尼子の末裔だったという事が映画の最後に金田一耕助(渥美清)が語っています・・・。

今回広島で、毛利と尼子と八つ墓村を考え、いままでよく理解できていなかった話をまとめることができました。
正に三本の矢です。


おまけです。

お堀の水は水位確保のため完全に閉鎖されましたが水質悪化のため現在は川とつなげて3日半で入れ替わるようになっているようです。
エサがもらえると思ってか、みんなこちらに泳いできます・・・。


願いが叶うので・・・

撫でまくりました。

城内は撮影禁止ですが、で日本刀の製作手順が展示してあったのですが、品質保証のたとえで使われる「折り紙つき」は、江戸時代に刀などの鑑定書としてついていたものが由来という事が書いてありました。
女性 へぇ~

さていよいよ・・・皆さんお待ちかねの・・・・。
マンホールです。でも申し訳ありません。1つしか見つけられませんでした。ほかにもあることは分かっていたのですが・・・。

広島城の堀と思われる堀をを泳ぐ鯉ともみじがデザインされています。
鯉の模様は何か意味があるかもと広島市の形や区の形など調べましたがどうも違うようです・・・。
調べきれませんでした・・・。

日本マンホール研究会は日本の美しい風景や歴史、地域に根ざした、美しいマンホールを研究しています。


三子教訓状(さんしきょうくんじょう)は、中国地方の戦国大名・毛利元就が1557年(弘治3年)に3人の子(毛利隆元・吉川元春・小早川隆景)に書いた文書。これを含む「毛利家文書」は重要文化財に指定されており、毛利元就自筆書状として山口県防府市の毛利博物館に収蔵されています。




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